一夜

「さようなら」
 私は冷めたコーヒーを啜りながらそう言った。その言葉に目の前の男はあんぐりと口を開ける。
「なんで……。だって君──」
「ううん。私たち、もうお終いよ」
 窓の外に広がる青空を見上げた。もう、夏も終わる。それならば、この関係も終わりにしてしまいたかった。その方が、美しいと思った。蝉は最後の盛りと、音の渦を巻いて世界を飲み込もうとしているところだった。
「でも……」
 そこからは声にならないようだ。ああ、なんて情けない男。泣きたいのはこっちの方なのに、そんなに泣かれたら涙なんて流せないじゃない。
「私、分かるのよ。もうこうなったら、駄目だって」
 その言葉に彼は大きく首を振る。鼻のすする音が白一色の部屋の中で濁音を残した。
「ずっと、待ってるよ。ずっと」
「馬鹿ね。それが出来ないって、言ってるんでしょう?」
 そう言って笑おうとしたが上手く笑えない。こんな良い人、本当は別れたくない。でも、もうおしまいだ。視界が霞んでいく。手の中に収まっていた愛用のティーカップが重力に引っ張られていった。呼吸が段々とゆっくりになる。
「俺、ずっと待ってるよ。君が教えてくれた小説みたいに。100年でも、200年でも。ずっと待ってるよ。白百合が咲くまで」
 その声は、私の心臓が鼓動をやめたのを知らせる無機質な機械音と同時だった。

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