夕立の恋心

 外に出ると生暖かい風が吹いていた。まだ湿っぽい自分の髪から、彼女の家のシャンプーの香りがする。それがさっきの夕立で濡れて冷え切ったアスファルトの匂いと混ざった。私はこの匂いが好きだったけど、今だけは邪魔くさく感じた。
「えー! 帰っちゃうの? どうせなら泊まっていけば良いのにー」
 彼女は朗らかに言ったが、私はその申し出を断る。
「いいよ。迷惑かけちゃうし」
「私も一人暮らしだよ? 気なんて使わなくて良いから! 咎めるような彼氏もいないし!」
 ころころと鈴のような笑い声が真っ赤な空に吸い込まれていった。明日も暑くなりそうだ。
「でも、ベッド一つしかないじゃん」
「女同士だから一緒に寝たって良いでしょ? 気にしない、気にしなーい!」
 ああ、何にも分かってない。気付いてない。私の気持ちに。私は、貴女と寝たら緊張しちゃって眠れないのに。
「明日朝からバイトなんでしょ?」
 そう言うと隣で膨れっ面をしてつまんなーい、とふてぶてしく呟いた。彼女が乾いたスニーカーで蹴った石は、側溝に落ちるとポチャンと音を立てて雨水の中へ沈んでいった。
「じゃあ、駅まで送ってくね」
 
 それから私たちは赤い空が紫色になるまでゆっくりと歩いた。私は、この時間が終わって欲しくなかった。一秒でもいいから彼女と一緒に居たかったのだ。
 しかし、いくらか歩くと、嫌でも駅の白い灯が見える。踏切の喧しい声と、電車の接近メロディーが聞こえ、それが私の乗る予定のものであると駅員は無機質に告げていた。
「ヤバイよ、乗り遅れちゃうよ!」
 そう言って彼女が私を急かしたが、走る気分にはなれない。どうせなら一本逃して少しでも彼女と話していたかった。でもそれじゃあ、あまりに不自然だ。
「やっば! じゃあここまででいいよ」
「えー、どうせなら改札まで行くよ。それに、さ……なんか付き合ってるみたいじゃない?」
 その言葉にまだ走ってもないのに心拍数が上がる。耳が熱くなったが、白い街灯はまだ遠くだった。薄暗く、表情も見えない中で、彼女はどんな顔をして言ったのだろう。どうせまた、いつもの冗談を言う時みたいに笑いながら言ったのだろう。
「いや、さすがに申し訳ないから! じゃあね! また来週、学校で!」
 私はそのまま彼女の顔も見ずに走り出した。相当不自然に見えただろうが、それ以上に赤くなった頬を彼女に悟られたくなかった。私の気持ちがバレてしまったら、今の関係が崩れてしまうような気がするのだ。まだ乾ききってないゴムサンダルが醜く鳴き声を上げる。晩夏の湿っぽい夜風は頬を冷たく濡らした。ああ、なんでいつもこんななんだろう。伝えて仕舞えば楽になるのだろうか。そう思って見上げた駅名を照らすLEDは油絵みたく、ぐちゃぐちゃに滲んでいた。

「あーあ。帰っちゃった」
 ポツリと呟いた言葉が晩夏の湿っぽい夜風に攫われる。さっきの彼女の反応を思い出して、さすがに言い過ぎたかと反省した。
 また来週。それはあまりに残酷な言葉だと思っていた。あと2日、会えない日が続くなんて嫌だな。そう思いながらもう一度、石を蹴る。蹴ったところで何もないのは分かっているけれど。
「電車、逃しちゃえば良かったのに。つまんないの」

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