きみは大海原に

『もし湯船と海が繋がっていたら、どうする?』と言っていた弟が浴槽で死んだ。自殺だった。
 弟は僕と違ってよく笑う奴で、うんざりするくらいに楽観的だった。動物園より水族館が好きで、ハンバーグよりカレーライスが好きだった。しかし、彼の最期はそれとあまりに不釣り合いだった。僕は唯一の肉親を失った悲しみより、行き場のない怒りが先立ったのである。なぜお前が俺より先に死ぬんだという、傲慢な怒りが。僕が弟と顔を合わせたのは実に3年ぶりであった。3年前はちょうど僕の再就職が決まった頃で、それの祝賀会と評して居酒屋で少し飲んだのである。それから弟の姿は随分と変わったものだ。その時でも、弟は少しやつれていたが、彼は元々華奢だったから、僕はさして気にも留めなかった。仕事が忙しいとは言っていたが、確かに彼は楽しそうだった。
 人は死ぬと体内にガスが溜まるそうだ。そうやって膨らんで水面から浮かび上がってきた状態を昔の人は江戸時代の力士に喩えたそうだが、全くだ。発見まで数日かかったということだから、ある程度覚悟はできていたものの風船のように膨れ上がっている弟だったそれは、正直、見るに耐えなかった。学生時代に僕より2月14日のチョコレートを貰っていたはずの弟は、浴槽で悪臭を発しながら、静かに黙りこくったまま、身元確認をしに来た僕を迎えた。もはや顔がどこだとか、彼の顔がどんなだとか、そんなことすら分からないくらいである。立ち会っていた警官は、弟を黙って睨んでいた僕に葬儀はしますかと尋ねた。僕はそのまま荼毘にしてください、とだけ早口で伝えた。翌日、弟は陶器の壷の中に収まって僕の腕の中にいた。
 そろそろ、四十九日だ。僕はベッドと小さなテーブル以外は何もない部屋の中に置かれた骨壷を見遣った。多少、居心地が悪そうだ。しかし、それだからと備え付けのクローゼットに隠すのも気が引けた。どんなに姿が変わろうと、これは僕の大切な弟なのだから。
「どうせ死ぬなら風呂場じゃなくて海で死ねば良かったのに」
 僕は吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込んで部屋に戻った。風は凍えるほどに冷たい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です